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第一面 i n d e x > 日本福祉新聞連載小説 > 八人の座談会
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八人の座談会
出席者:(小説掲載順)
佐倉真麻『ブラック・ママと嘘つきのわたし』
芝里紘崋『ヒッポポタマス男爵と良い黄色インコ』
杉谷夏深『にくのくだ』
七雨七虹『深海魚』
吹坂琢朗『風の乳房』
君近桃菓『カタマラン』
初見悦理『呪術師バオバブと泣き叫ぶオニヒトデ』
司会(編集部)
※資料として、まだWEB上に掲載されていないぶんも含め、プリントアウトされた各方々の小説が、全員に配布されています。
司会:では、まずあらためまして。本日は、ご多忙ななか、みなさま、お集まりいただき、まことにありがとうございます。まずは、こころよりお礼をもうしあげます。さて、今回のこれはですね、えー、
読者の皆様から、いろいろとご意見やご質問なども編集部へとどきだしまして、で、そうしたお声を拝聴するなかで気づいたのは、
小説の内容もそうだけれども、そもそも、いったいどういった方々が「福祉小説」なるものを執筆しているのかと、そちらのほうも興味の対象になっている。
一般的な小説とどこが違うのか。
どういった「特別な意識」で書いているのか、知りたい。というわけでまずは、そのあたりを明確にしておこうじゃないかと。一度きっちりと座をもって、共通するものはなにか。ことなっているものはなにか。
そうしたことを確かめあい、それからあらためて各人が現場ではじめてみようじゃないか、はじめていただこうではないか、ということで、このように発起いたしました、わけでございます。(笑)
一同:(笑)
吹坂:おたがい、手の内をみすかしあうということでしょ。(笑)
司会:ええまあ、なんというか。(笑)
初見:ナマ討論『朝まで○○○!』みたいな感じですか? なんか、おっかないわ(笑)
司会:まずは、おひとりずつ、自己紹介をしていただいて、ですね、ははは。
七雨:司会進行、グデグデですね。
司会:はい。なんだか、楽しくって(笑)
一同:(笑)
司会:ということで、じゃあ、レディーファーストということで、わたしの真横から、えー、こっちがいいですか? こっちからでいい? では、佐倉さんから、お願いします。(笑)
佐倉:ホントに、グデグデですね。司会になってない。(笑)
司会:はい。心はまじめなんですけれども、なんなんでしょうかねえ。きっと、うれしいんでしょうねえ。わたし、もうしゃべりませんから、どうぞみなさんで、すきにやっちゃってください(笑)
一同:(笑)
七雨:司会放棄だ。(笑)
佐倉:では、せんえつながら、何人かのかたとは面識があるんですが、いちおう、はじめまして、ということで『ブラック・ママと嘘つきのわたし』を書いている佐倉真麻です。わたしの場合はですね
「にっぷくに載せるんで」というお話をうかがったときに、わたしのなかで、あーそういえば、と、書きたかったテーマが思いだされて、それは忘れていたというか、あまり勢い込んで書く気が起きなかったまま、心のすみに
追いやっていたというか、それが、揺り起こされて、じゃあ、そいつを書くか、とまあ、そのように思いまして、承諾したわけです。
杉谷:主人公の名前の『マーサ』というのは、やはり意図的になんでしょうか?
佐倉:そうですね。単に文体というか、作風を「私小説」風にしたいというよりは、もう一歩踏み込んで「わたしのこと」として書いていきたい、という意識がありました。というか、あります。
杉谷:小説への責任、というようなことですか?
佐倉:そうですね、一般的な文学における意味では、そうなるんじゃないかとおもうんですけれども、にっぷくの「福祉小説」という場を考慮に入れると、小説への責任というよりは、小説の対象、テーマへの責任、
といったものになるのではないかとおもいます。
杉谷:作品主義ではないんですね。
佐倉:そうですね。作品主義ではないです。作品として自立していなくとも、書く、ということですかね。
杉谷:それは、あらかじめ不完全さを受け入れてということですか。
佐倉:そういってしまうと、身も蓋もないですが。芸術としての作品の完成を目指してはいますが、それは第一義的なものではありません。あくまでも副次的なハーベストです。
杉谷:生きる、ということと一緒、と。
佐倉:そうです。芸術は生命を輝かせますが、生命そのものにはなりません。
杉谷:生きる、ということを書くんですね。
佐倉:こころづもり、としてはそうです。精神しょうがい者を主人公にしていますが、精神しょうがい者を書くことで人間を書くのか、ただ単に、精神しょうがい者を書くのか、意味は違ってくるとおもいますが、
わたしはあえて、後者をとります。文学一般における姿勢「たまたま精神しょうがい者である人物をとおして、深く掘りさげ人間を書く」という方法論をとりません。
杉谷:へえ。
佐倉:わたしがすべきことは、そこにはないと思います。ただ単に、精神しょうがい者を書く。しかし、あえてそこに人間の共通意識とか、共有可能な真理とかを追い求めません。
杉谷:放棄している。
佐倉:放棄とは逆ですね。
杉谷:逆?
佐倉:はい。わたしたちが通常いだいている人間への理解、というものを根底からくつがえすような、強烈なバイブレーションを精神しょうがい者のかたがたはもっている、と、わたしはおもっています。その力は、
強く、人にもよるかもしれませんが、純粋です。
杉谷:ほお。
佐倉:はい。ですから、人間と精神しょうがい者の包含関係が、逆転する、そうした奥行きをもっていると信じてもいるから、書けるんだとおもいます。すなおに、書きたい、それだけですね。書けば、あらわれてく
るんじゃないか、しかもわたしの意図したものとはちがって。そうした読者との関係性です。幾重にも捻転し、指先一本で触れている。しかし、強い電流は流すぞ、というような。(笑)
一同:(笑)
初見:怖い(笑)
佐倉:ええ。わたしも怖いです。でも、それでいいとおもいます。
七雨:では、つぎにわたしということで、『深海魚』を書いています七雨七虹です。
杉谷:あれは、といいますか、この作品は、といいますか、はじめから舞台にあげる前提で書かれたんですか? 執筆中でおありなら、いいかえますと、はじめから舞台にあげる前提で、お書きになっているんですか?
七雨:そうですね。かなりまじめに考えています。こんな芝居を演ることが果たして可能かどうかはわかりませんが。(笑)
一同:(笑)
吹坂:わたしは登場人物の四人と世代も近いせいか、非常におもしろく読ませてもらっています。わたしは、もちろん演劇の制作に関わったことはないんだけれども、構造として、面白いです。昔は、よく芝居を観たん
ですけれども、いまはまったく劇場へ行かなくなりました。なんだか、なつかしいというか。こういってはなんですけれども『実験演劇』って、まだあるんですか?
七雨:なくなりはしないんじゃないでしょうか。(笑)
一同:(笑)
七雨:佐倉さんの話ではないですけれども「不完全さ」というものを、どう引き受けていくか、といったねらいはあります。
吹坂:「肉体という言語」
七雨:そうですね。端的にいってしまえば、小説として絶対に成立しない小説、ということでしょうか。舞台というのは、どのようにしても、役者が存在する、あついは、非在する世界であって、戯曲作家、演出家も、
ギリギリのところではタッチできないんです。幕が開いてしまったら、役者のものになってしまう。それはそれでいいんですが、それを成立させない力、というものを、いちど提出したかった。その意味では、舞台として成立しない
舞台、ということでもあるんですが。
君近:かなり、エロティックですよね。わたしがいうのも、あれですが。
一同:(笑)
七雨:そうですね。君近さんの『カタマラン』とは、またちがった意味で、エロティックですね。また、エロティックであろう、ともおもっています。どのようにしても、舞台というのは、本質的に、エロティックなも
のですよ。登場するのが、なまみの人間なんですから。根元へと沈んでいくと、性の問題は不可避な課題になってきますね。
杉谷:「福祉と性」という。
七雨:不可分なテーマですよね。どこを輪切りにしても、福祉は「性」と無関係ではない。
君近:性は「死」を暗示しますよね。
七雨:死、そのものといってもいいとおもいます。
杉谷:「性」というと、具体的には、生物学的な性差、というものがありますよね。こうしてみわたすと、今日ここに出席されている方々といいますか、『日本福祉新聞連載小説』を執筆されておられる方々は、女性が
多いですよね。男性がふたりで、女性が四人という。これ、比率が逆転してますと、また、別の話になってくるんじゃないかとおもうんですが、にっぷくとしては、こうした布陣にした。そのうえで、登場人物が「男と女」という。
七雨:「男と男」「女と女」でもまったくかまわないんです。愛しあう者たちがいる、ということで。そこは、初見さんの『呪術師バオバブと泣き叫ぶオニヒトデ』とも、定通するんじゃないかとおもうんですよね。
初見:『呪術師バオバブと泣き叫ぶオニヒトデ』では、レズビアンの愛を扱っています。
七雨:人間が、魂が、追い込まれていくと、ひとつは確実に性へとむかっていく。「戦場における性」というのは、永遠のテーマです。ある者は恋愛へと接近し、ある者は性暴力へと接近していく。舞台というのは、
演劇人にとっての戦場です。経済活動での究極の現場でもあるし、生きるか死ぬかといった具体的な場でもある。ある者は勝利し、ある者は敗北する。性は、からめてとして、重要な位置をしめています。性は必ずしも、エロティシ
ズムと結びつくわけではありませんが、『深海魚』のなかでは、エロティシズムにこだわっています。
芝里:では、はじめまして。『ヒッポポタマス男爵と良い黄色インコ』の芝里紘崋です。えーと、わたしの小説は、いわゆるラノベです。若い子というか、中学生くらいの少年少女に読んでもらおうというこ
とで書いています。
初見:『呪術師バオバブと泣き叫ぶオニヒトデ』のバオバブと同じへスタイルなんですよね。ドレッド(笑)
芝里:ええ。キャラ、かぶってますよね。(笑)
初見:キャラはかぶってないですけれども。(笑)
佐倉:マーサも、ドレッドロックにしちゃおうかな。(笑)
吹坂:いっそ、全登場人物が、ドレッドということにしちゃうとかね。
一同:(笑)
杉谷:うん。意味あることだとおもいますよ。そもそも、ラスタファーでは、ドレッドロックは重要な意味をもっているし。たしか『呪術師バオバブと泣き叫ぶオニヒトデ』のなかじゃなかったかとおもうんだけど、
メデューサのことがちらっとでてきますよね。
初見:ええ。
杉谷:怒り、悲しみ、復讐といった象徴。「自分の髪はアテネの髪より美しい」と自慢して、ゼウスの娘のアテネの怒りをかって、美貌は醜さに変えられ、美しい髪は蛇に変えられてしまう。
初見:最後は、首を切られて殺されます。メデューサの切りおとされた首からしたたりおちた血は二つの瓶に集められ、アテネに献上されるんです。右側の血管から流れて右の瓶にはいった血には、死者を蘇生させる力
がある。左側の血管から流れて左の瓶にはいった血は人を殺す力がある。アテネはこれらの血を混ぜた薬をつくらせる。
杉谷:そう。石化された者を戻すには、メデューサの涙だけが有効でね。頭に生えている蛇は、女性に噛みつかず、男性のみを狙う。(笑)
吹坂:男として、わたしは、かみつかれたい。
一同:(笑)
杉谷:もうひとつ、なにげないかのような設定ですが、霊柩車が出てきますよね。「流しの霊柩車」
芝里:はい。
杉谷:あれは、というか、これは、どういったイメージというか、意図なんですか?
芝里:はい。さきほどの「性と死」とも重なるかとおもうんですが、生命の不可逆な流れといったことをベースに置いておこうといおもいがありました。
杉谷:なるほど。ヒッポポタマスって、カバのことですよね。(笑)
芝里:はい。(笑)
杉谷:そこに深い意味とかあったりするんですか?
芝里:深い意味かどうか、わかりませんが、わたしにはかなりこだわりがあって、ひとつは、まるで血のような、赤い汗をかくんですよね。
杉谷:ですね。
芝里:あと、最近わかったことですが、カバは、クジラと最も近しい関係にあるんだそうです。
杉谷:ほんとうですか。
芝里:はい。また、カバはおもいのほか凶暴で、ワニの天敵だったりするんです。真夜中、草むらのなかを、どどど、って全速力で走ったり。そうした動物を擬人化させて、流しの霊柩車の運転手にしたい、といったこ
とが浮かんで、書きはじめました。
吹坂:さすがに、カバはドレッドにはしないよね。
一同:(笑)
芝里:はい。でも、してもいいですよ。
佐倉:すごい、ビジュアル。(笑)
杉谷:弟をつれさられ、魔界へとはいる、というプロットは。
芝里:はい。基本的には、人間性の喪失への恐怖。あるいは、魂の原点回帰願望、といったようなものをモティーフしています。生命の危機にさらされた主人公の少女が、死へと向かう、不可逆な流れのなかで、どう逸
脱し、どう回復するのか、といったことですかね。
吹坂:福祉、ですね。構造として。
芝里:はい。
君近:では、わたし、ですかね。はい。みなさん、はじめまして。『カタマラン』を書かせていただいております君近桃菓です。ええ、この『カタマラン』という小説は、いまのところ、なんの気味わるさも
ないですが、じつは、かなりグロテスクな作品なんですね。(笑)
吹坂:いや、法医学教室というだけでも、かなり伝わりますよ。テレビドラマのような「殺人事件」をあつかうわけではないんでしょ。
君近:ええ、殺人事件、ではないですね。「恋愛」という事件ともいえますが。
吹坂:で、しかもそれが、グロい。(笑)
君近:ええ。(笑)あまりいってしまうと、あれですけれども。
杉谷:さきに、カタマラン、というヨットのイメージがあって、それから、三角関係をはめこんでいったんですか? それとも、三角関係を考えているうちに、カタマランと、であわれたんですか?
君近:カタマラン、がさきですかね。どっちだろ。(笑)
一同:(笑)
君近:わたし、小型船舶1級の免許、もってるんです。ホントに。
杉谷:え!
君近:ヨットももっていたことあるんです。ホントに。(笑)
杉谷:すごい。(笑)
一同:(笑)
君近:(笑)すごく、はないです、べつに。(笑)世の中には、ヨットをもっていらっしゃるかたは大勢いますから。
杉谷:そうか。(笑)
君近:ヨットというのは、船ですから、水に浮かびます。けっして安定しないんですね。ゆれつづけています。船に弱い方は、陸から船をみているだけで酔います。(笑)
吹坂:船、という言葉を聴いただけでも酔う。
一同:(笑)
君近:そうした、けっして安定しない場所をベースとして、恋愛小説を書きたかった。安定しているようで、安定していない、そうしたものが恋愛ではないか、ひいては社会そのものではないか、といったメタファー
としてのものなんですね、船が。そのうえで、カタマラン、という、双胴一翼のヨットのことですが、それをえらんで、男と女と男を書いてみたい、と、そうしたおもいがありました。
杉谷:ノアの箱舟、も、ある種のヨットですよね。世界救済としての。
君近:ええ。「浮かぶ」あるいは「ただよう」といったものが、人間の意識の根源のなかに、重要なものとして位置づけられているわけです。
杉谷:一夫一婦制へのアンチテーゼ、のようなものはおありなんですか?
君近:うーん。どうなんでしょう。男女、あるいは、同性同士でもいいんですけれども、「対(つい)」である必然はないですよね。そもそも歴史的にいっても、欧米の国々で、一夫一婦制が確立したのは、かなり近世
になってからであるし、現代でも、一部の国では、一夫多妻、あるいはその逆もあったりしますから。
杉谷:私有財産制、とも関連する。
君近:ええ。ほんらいなら、母系社会が財産制をかたるうえで、明確だったりもしますからね。まあ、財産制、まではふみこまないつもりですけれども、根底では「女性性」という意味で、生死の領分が、どのように明
確化され、生きることへとつながっていくのか、そうした構造的な役割を、主人公の女性がどうむきあい、ひきうけていくか、というのがテーマのひとつでもありますね。
杉谷:カタマラン、というのは、日本ではあまりなじみのない、のりものですよね。
君近:ええ。わたしも、そうだとおもいます。ただ、欧米では、かなり人気の船なんです。もちろん、専門のビルダー会社も多くあります。ヨットを語るうえで、大切な視点は、さきほどもすこしふれましたけれども、
そこに「住む」「生活する」という欲求をおこさせる器(うつわ)なんですね。ヨットに寝泊まりしている水上生活者は、欧米といわず、世界中に、かなりいます。
杉谷:日本では、違法になるんですか?
君近:ちゃんと契約したヨットクラブに停泊していたら、違法ではないんだとおもいます。ですが、河川に停泊させているヨットは、ダメです。ヨットの船内というのは、想像以上に狭いものなんです。もちろん、何十
フィートもあるような大型艇なら、狭さを感じさせないかもしれませんが、それでも、かなり窮屈です。そうした空間に生活拠点をおこうとなると、いろいろ工夫するわけです。
杉谷:ハンモックで寝るとか。
君近:ええ。(笑)さすがに、民間のヨットでは、どうでしょうか。でも、たしかに、ハンモックは船での寝具としてとりいれられていました。ちょっと専門的な話ですが、普通の単胴ヨットと、カタマランなどの複数の
胴のヨットというのは、根本的に異質なものなんです。たとえていうなら、単胴ヨットは、水面に浮かぶ釣りの浮きです。複胴ヨットは、水面に浮かぶ板、です。波がきたときに、全くことなったゆれ方をしめします。そうしたこともふ
くめ、カタマラン、というのは、かなり居住性が高い船なんです。めちゃくちゃ、広いです。単胴ヨットとは比べものになりません。
佐倉:わたし、ハワイでクルーズしたことがあるのでしってます。とっても広かった。マンションみたい。
一同:(笑)
君近:ええ。そのとおりです。あと、重要なのは、キールがないということです。単胴ヨットは、水中に深く重りをしこんで、それで帆のうける風の力に拮抗して、推進力をだしているわけです。カタマランは、面でそ
れをうけます。水面下にそれほどの深さを必要としないんです。ですから、サンゴ礁のおおいリーフや、砂浜などにそのままちかづけるわけです。まあ、そうしたこまかなことは、小説のなかで書かれていくわけですが。
『にくのくだ』
杉谷夏深
杉谷:なるほど。というわけで、こんどはわたしですかね。はじめまして、というか、さっきっから、さんざん、ひとり、しゃべりたおしているじゃないか、と。(笑)『にくのくだ』をかいております杉谷夏深
です。
一同:(笑)
杉谷:わたしの『にくのくだ』は、おとなりの、君近さんの『カタマラン』とは、別次元の、グロテスクさ、というものを、批判的にですが、意識して書かせてもらっています。というのも、主人公の男性は、完全看
護の、身体を全く動かすことができないかたですので、身体中の筋肉という筋肉が、弛緩しているわけです。尿や便といった排泄も、尿道や肛門からはできませんので、専用のストーマをとりつけていらっしゃる、オストメイトなん
ですね。日本では、推定でおよそ十六万人いるといわれていますが。そうしたかたがたは、むしろ、衛生に注意していますし、一般的に尿道や肛門から排泄をしている人と比べると、とんでもなく清らかなんです。それはまったく、
おどろくほどに。天と地ほどもひらきがある。わきのしたや、あごといっしょですね。なにしろ排泄しませんから。汗をかく以外、汚れようがないんです。いってみれば、赤ちゃんより清らかです。まずそうした「清らかさ」を担保
し、被看護者、オストメイトへの意識を、つまりグロテスクさ、というものを捻転させていきたい、といった企図がありました。
これは、さきほど『ブラック・ママと嘘つきのわたし』を書かれていらっしゃる佐倉さんの意識と同じではないかとおもうんです。「書く対象への責任」ですかね。
吹坂:グロテスク、とおもう者のこころこそ、グロテスクであるという。
杉谷:そうです。鏡のようなもので、みる者の真実を映す。ですが、ただたんに、対象化しやすい「神性」のようなものを付与したくもなかった。なぜって、おなじ人間なんですから。差別にたいする、逆差別のよう
な、まつりあげることもしたくはなかったわけです。ただし「なにもできない」ということは、すごいことなんだぞ、という主張はあります。さきにいっておきますが、男性はなにもしません。いっさいなにもしないまま、もうひと
りの主人公が救済されていきます。そのダイナミズムです。
吹坂:禅、のようですね。
杉谷:はい。
七雨:ひらがなで書かれているというのも、なにか意図があるんですか?
杉谷:はい。正確には違いますが、おおむね、表音文字としてのひらがなと、表意文字としての漢字、といった分類。あるいは、韓国の意識される、自分たちがつくりだしたハングルと、漢民族が流入させた漢字、と
いった分類。同音異字。あるいは、同音違語。そうしたかずかずの制度ともいえる、意識を惹起する力としての漢字をなくし、プレーンな音素として、表記したとき、どこまで通用するのかといった模索そのものをも、提出したいとい
ったおもいがあったわけです。
吹坂:ひらがなだらけという、グロテスクさ。
杉谷:はい。それは同時に、清らかさにもなるという。ご承知のように、日本にはひらがなの文化がありますから。それと、これも君近さんの小型船舶1級の免許、じゃないですけれども、わたし、ホームヘルパー1
級の免許、もってるんです。就職はしていませんが、いつでも就職に役立てられる位置にはいる。これって、わたしには強いこだわりでもあるわけです。自身の将来の「老い」もふくめて、あるいは両親へむけても、なにかあったら
即応できるようでありたい。そのときに、文学がどのように絡まってくるのかをみつめたい、といったおもいがあるわけです。実際。(お時間、散開)
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