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第一面 i n d e x > 日本福祉新聞連載小説 > 『風の乳房』 [1]
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『風の乳房』

吹坂琢朗 作  

1

 植草部長と私は、客宅にあがりこんでいた。今日は、クリスマスイブ。しかも、夜の9時。こんな年の瀬に、こんな非常識な時間帯にもかかわらず、ことさら必要のない家のリフォームの訪問販売員を、家に招き入れる。どうかしている。
 お人好しで、呑気な、無防備すぎるほど無防備な、盲目の老夫婦。
 熱心なクリスチャンであるという二人は、興奮していた。
 特に、夫の方がさきほどから、熱弁をふるっていた。
 植草部長と私は、ときおり相槌をうつものの、いっさい内容など聞いてはいなかった。ただ夫に、喋りたいだけ喋らせていた、
 それが「手」だからだ。マニュアルで、しっかりと教え込まれていた。
 いいか、渡瀬。絶対に客の前で喋るな。俺が、話すから、俺だけを見て、立派な話をされている、という態度をしろ。いいな。
 いいか、渡瀬。客が話している時には、聞いているという顔をして、様子をうかがえ。必ず隙ができている。何を見るのか。部屋の中を観察するんだよ。どこが傷んでいるか。どの程度の収入のある家か。どこをどう攻めれば、落ちるか。全部、見える。
 私は、息子ほどの年齢の植草部長にかしずき、いわれたままをしようと決めた。
「磔刑の直前の主イエス様がおっしゃった。『婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です』これは『ヨハネの福音書 19-26から19-30ですがね、またこうも続くわけですよ。『それから弟子に言われた。《見なさい、あなたの母です》。そのときから、この弟子は母を自分の家に引き取った』」
 老人は、天井に顔を向けながら、しかし、白濁した二つの瞳を潤ませ、まるで本当に、何ものかを見ているかのように、まばたき、よだれを垂らしながら、笑った。
「うん。それでですね」
 ハンカチをポケットから取り出して、口の周りをぬぐった。
「ここに書かれている『婦人』とは、イエスの実の母、つまり聖母マリア様ですよ。根源的罪悪から、唯一まぬがれた女性。私は思うんですがね、たった数行の、この言葉によって、純粋な意味で、神によって救済される対象が、それまでの選民として限定されていたところのユダヤ人オンリーから、非ユダヤ人、たったひとつ、キリストを信じる者という、そのことによって限定される全体へと、転移していった。この言葉なくして、根拠はないんですよ。なんという、深淵な!」
 前歯のない唇のあいだから、飛沫がとんだ。
 ああ、ふう。老人は、またハンカチを口におしつけた。
 私は、植草部長をみた。
 大学受験予備校の授業でも、これほど熱心に話に傾聴する者はいまい、と思われるほど、真剣な顔をし、聞いていた。
 相手は、盲人夫婦。どんな顔で聞いていようが、気づかれるわけなどないではないかとも思ったが、なにしろ植草部長は、山のようにどすんと座り、両腕を広げ、テーブルにのせ、向かい合っていた。
「旧約聖書に記載されていないところの民族総体」
 老人は、次々と溢れ出てくる言葉を、一刻も早く吐き出さなくては、後ろがつかえてしまうとでもいうかのように、息もつがずに、喋ることに夢中だった。
「聖母マリアを共有することで、世界中に広がっていった、救済という概念。いいですか。世界中ですよ。世界中の心の貧民。世界中の魂の奴隷。世界中の愛に乾く者たち。ああ。ふう。救われるという実際。なぜであるか。それは、家に引き取ったから! 子どもであるところの、我々が!」
 私は、宗教に疎い。ましてや、キリスト教に興味を持ったことなど、人生で一度としてないが、それでも、この老人が何を言おうとしているのか、何を訴えようとしているのか、ニュワンスとしてわかる。たぶん、心のことを問題にしているのであろうし、そのことを考えるだけでも有益であって、少なくとも、この老人夫婦、あるいは限定的に、この老人男性にとっては、かけがえのない、心の糧、心の支えなのだろう。
 言葉によって、魂が磨かれるという経験を、私はしたことがないので、わかりかねるのだが。
 しかし、それでも、情熱は伝わる。良い悪いは、二の次として。
 だが、断言して良いだろう。植草部長は、絶対に理解してはいない。
 いや、そもそも聞いてさえいないのではないか。熱心に聞いている素振りだけは、天才的に上手だけれども。言葉の意味。老人の示唆する根源の闇と救済。鼻でせせら笑っているに違いないのだが、だからといって、内容につっこんで論破しているというのではまったくなく、ただ単に、自分以外の人間を、バカにしている、貧乏人をみくだしている、ましてや視覚しょうがい者の老夫婦となっては、肚のなかで大笑いしている、と、私には笑い声が聞こえてくるようだった。
 中学しか出ていない者をバカにする気などない。立派な人物を知っているし、理論的に言えば、立派である必要もないわけだ。が、植草部長は、むしろ自慢げに、自分が中学しか出ていないことを声だかに自慢した。ペニスに、刑務所の歯ブラシの柄を加工してつくった真珠もどきを入れている植草部長。彼の理論はこうだ。
 お前らは、高校、大学と出ていながら、俺よりも地位も低く、給料も安いじゃないか。おまけに歳もとっている。チンボコだって、お前らはへなちょこだろ。俺は、一晩中だって女をイカせられるんだ。
「単数ですよ! 弟子は! 『あなたの子です』も『見なさい、あなたなたの母です』も! 『あなた』は単数! このなかに、全人類が入るんです! だから良いんですよ! 単数で! 救われるんだ! たったひとりの、あなたが!」
 盲目の老人は、ふるえていた。
 私は、罪悪感にさいなまれた。
 なぜなら、私の前職は、福祉関連の団体職員だったからだ。 (つづく)


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