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『深海魚』

七雨七虹 作  


5


「モルトの話が、そんなにデリケートなのか?」
 別府は笑った。わたしも笑った。
 宇津木夫婦は、笑わなかった。
 わたしは、笑い続けた。
 すると別府は、気味わるがって、笑いをとめた。わたしの顔をまじまじと見てから、正面に立つ宇津木を見て、次に美代子夫人の横顔をみていた。
 宇津木は、別府をみ、わたしをみ、まるで何事もなかったかのように、話を続けた。
「死をテーマにしたいんだ」
 わたしは、大きい声で笑った。
 別府が怖い顔をして睨みつけてきたのがみえた。
 まぬけづらをしたこの別府という男は、宇津木夫婦のように、商業演劇の世界で生きていた。意外だがプロデューサーとして有能だった。カネまわりがいいのは、この四人のなかでダントツに一番ではなかっただろうか。逆が、わたし。
 わたしについても、ほんの少しだけふれよう。
 わたしの妻は、平和な一般家庭の生まれ。演劇に興味はないが、TVドラマを観ながら出演者の演技にケチをつけるのが趣味。しかも的を得ている。
 わたしたちは埼玉に一戸建てを買い、子どもは三人、男男男。長男はすでに家庭を持ち家から出ている。次男は農業関連の大手の商社に勤め、海外支社に飛ばされていた。末の子は、何度説明を受けても意味不明な研究のため、電気工学の大学院で助手をしている。
 わたしは、芸能人を友人に持っている、ということを知られるのが最も嫌なことだったので、妻にさえ、この演劇集団との関わりを教えてはいない。もちろん、わたしが若かった時分に、アングラ劇団に所属していたなど、一切告げたことはない。演劇少女風にいうなら「そんなこと知られたら、舌かんで死んじゃいたい!」....か。
 わたしが家をあけることが多くとも、浮気の疑念を持たれないのは、すでに多くの子を産んだからだろう。あるいは、そもそも今では、女に好かれる顔もカネも若さももちあわせていない、単なるじじい、と見切ったからだろう。
 くわえて、わたしが中年期に精神を病んだせいか、あるいは薬の副作用か、男としての性機能が無化した。わたしは、人生で初めて、幸せを実感した。わたしも申請すれば『精神障害者手帳』をもらうこともできたろう。事実、暗に医師にもリタイヤをうながされた。
 だが、わたしは従わなかった。
 精神を患って、この歳になって、おそまきながら、やっとわかってきたことがある。病むことを引き受け、それでもなにものかと、たがいに首を絞め合うような間合いで向かい合っていると、いままでみえなかったものが、たくさんみえはじめてくるのだということ。対象の首を絞める感触、対象にわたしの首を絞められる感覚、きもちいい。ぶりぶりと音をたてて、変容する。あるいは固着する。それらはわたしを魅了した。『真理の亡霊』わたしは勝手に、そう命名した。みつめ、対話し、このまま、社会で生き、狂っていたい。
「死をテーマにしたいんだ。ぼくらは、もうそろそろ、そうしたテーマを扱っても、笑われない世代になったんじゃないかな」
 宇津木は三人をみた。
「死と深海魚?」と、わたし。
「いいねえ、いいよ。それ、すごくいい」と、別府。みるのもまぶしいほど、顔を輝かせて口を開けている。
 宇津木は続けた。
「家族や親戚、あるいは友人のなかに、だれかしら先立たれた方がいるだろ。そうした人々への追悼としたい。オマージュとして捧げる。たとえば、Mちゃん。彼女はぼくらの共通の友人だったじゃないか」
「わたしは、演出したこともあるわ。随分と昔だけど」と、夫人。
「ああ、ぼくも一緒に仕事をした。なんどか飯を喰いにいったこともあったな」と、別府。「えらい酒豪でさ、こっちがさきに飲みつぶれちゃったよ。肝臓が悪くて、それで死んだんじゃないかって思ったぐらいだ。残念な死だったよ。まったく」
「ぼくは、ないよ。何の関係も」
 三人は、実に残念そうに、わたしの顔を見た。
「おまえ、よびだしても、でてこないからさあ。そんなに芸能人が嫌いか」
 わたしの友人関係そのものをプロデュースしたいといった視線を送る別府。
「ああ、好きではないな。どちらかといえば」
「まあいい。くわえて、きみたちにだけ告げておきたいのだけれど、たぶん、これがぼくの遺作になると思う」と、宇津木。
「遺作?」突然の告白に、別府はのけぞった。
「ああ、膵臓癌がみつかった」
「膵臓癌! いつわかったんだ?」
「このあいだの検診でね」
「じゃあ、芝居なんかしている暇はないだろ、即刻入院しろよ!」わたしは頭をかいた。
「いや、無理なんだ」
「なぜ」
「肺にも転移している。レントゲン写真を観ながら医師が、桜の花が咲いているようだ、といっていた。手術や放射線や薬での治療ではなく、モルヒネでしのぐ。尊厳死を選択した。もうきめたことなんだ」
 わたしと別府は、美代子夫人に視線を向けた。夫人は静かにうなずいた。
 沈黙が、地下のスタジオに注ぎ込まれ、全員が、死と深海魚について考えた。
「さあ、つづきを話そう。おい」と、宇津木はわたしをゆびさした。「ざっぱくでいいんだ。大まかな構図。それがむりなら、ちょっとしたイメージだけでもいい。または、ダイレクトな関連性が認められないようなものでもさ。全く無関係な、心のメモ。手触り。ほんのささいなディーテイルでいい。なにしろ、おもいついたなら、メールでもファックスでもいいから、すぐ、ぼくへ送ってくれ。それをてがかりとして、全員ですこしずつ前へ進めていこう。いつも僕らが行っているようなスタイルで」
 美代子夫人も切実な視線をわたしに送ってきた。
 宇津木はつづけた。
「つまり、まず第一に、きみの文章が叩き台としてあって、全員で読み込んでいって、これはダメだとなる。なぜ? 理由は、ここがこうだから。ならばこういうのはどう? まだダメだ。ならばもっとこうしよう。視点を変えてこういうのはどうだろう。いいねえ、それだ。とね」宇津木は、わたしをみつめた。「きみがまず動きださないことには、なにもはじまらないんだよ」
 わたしは、不愉快になって、視線をはずした。
「そのまえに、訊ねておきたいことがある」わたしは親指と中指でグラスをつまみ、かるく傾けた。
「なんだ?」
「この芝居が、きみの遺作なのはわかった。が、これを舞台にあげてから死ぬつもりなのか。あるいは、こうした稽古中に死ぬつもりなのか、どっちだ?」
 視線をあげると宇津木は、みたこともないような優しい顔をして微笑み、まるで、気に入った花や星について語るかのように告げた。
「きまってるだろ。ぼくはもう、いつ死んでもおかしくないほどに、ヤラレているんだよ」
「じゃあ、やるだけ無駄じゃないか!」と、わたし。
「無駄じゃない!」宇津木もどなった。
 しばらく、にらみあった。
「無駄じゃないよ」ささやき声になっていた。「演劇は、プロセスだ。いつもいってるじゃないか。舞台は幕を必要としない。すべての過程が、ゴールであり、永遠の発展途上だ、とさ」
「馬鹿馬鹿しい!」
「馬鹿馬鹿しいだって? じゃあ、あれは嘘か? 実験演劇のたんなる詭弁か?」
「観客はどうする?」
「もちろん劇場はおさえてあるよ。満員で開幕し、舞台上はカラ。ぼくはすでにこの世にいない。あるいはチケットを売らず、誰もいない客席をまえに、ぼくが、ピンスポをうけ、誰にもみせられないようなみっともない、へとへとで無残な芝居を上演する。あるいはこうだ、きみたち三人だけが客席に座る『演劇芸術を創造する、その過程を共有したメタ演劇』を演じるものとしてね。もはや、たちあがれなくなったとして、一台のベッドが舞台中央に置かれ、そこにぼくが横たわる。そういった深海魚。どうとでもなる。いままで、幾つもの不可能を可能にしてきたんだ。今回も同じ。劇場は、絶対にキャンセルはしない」
 ひといきついて、宇津木は微笑んだ。「どうだ、答えになったか?」
 わたしは黙った。
 ウィスキーだけが、グラスのなかで輝いていた。 (つづく)


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