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『深海魚』

七雨七虹 作  


4


 全員が、オールドファッショングラスに、高級なモルトウィスキーを入れて、ちびちびとやりながら考えていた。
 大きなホワイトボードをまえに、黒色ペンで器用に絵を描き、宇津木は語り始めた。
「チョウチンアンコウなんだ。醜いだろ」
 宇津木は笑った。別府も笑った。私と美代子夫人は、笑わなかった。
「怪奇というべきか。有名だから、君らも知っているだろ」
 別府は私を見た。私は、首を横に振った。
「もうすでに、妻にはいってあるんだけれども、額に、このようにして、こんな感じで、金属の輪をかぶり、------こんなふうにさ」
「おい、早くまわせよ」
「待てよ」
「そこから、にょきっと、こう、線を描いて棒が一本のびて、先端に明かりがついている」
 宇津木は、バスケットボールのフリースローのようなポーズをとった。
「そうした姿で、ぼくは舞台に立ちたい。内容は、そう、芥川龍之介の有名な小説『河童』のような、奇想天外なクダ話のようでありながら、実は本当に深海底に棲む一尾の魚でもあるという、まずそうした不明瞭な構図があって、それに加えて、舞台上で、ぼくが、機関銃のように、徹底的に喋りまくるという、非常に高度な、難易度の高い、技術的な特色を持っている。まさしく、気の触れた多弁さだ。長ゼリフなら長ゼリフなほど良い。力点はここさ。驚異の長ゼリフ。プロンプターなしで喋られる限界までね。ギネスブックに載るほど。はははははは!」
 何が可笑しいのかわたしにはわからなかったが、彼の妻は一緒になって笑っていた。
 わたしは見飽きたので別府に写真の束をわたした。別府は息を弾ませ、赤い肉のへばりついた太い骨をもらったセントバーナードのように、写真に貪りついていた。がぶがぶ。
 別府は、メガネを、禿げた額にあげたり、鼻梁のうえにもどしたりしていた。わたしはむしろ、そちらのほうに、より深い面白みを見出だしはじめていた。
「セントバーナード、じゃなくて、マスティフ、のほうが近しいかな」
 別府は、わたしがからかっても、視線をわたしに向けることはなかった。集中していたのだろう。わたしの声が、言語として認識されず、細長い耳の穴を音として通過していっただけのようだった。
「おあずけ! といったら、両腕を床に突いて、尻をおろすかい? 口の脇から大量にヨダレを垂らして、すまなさそうにご主人を見上げ、もじもじして、でも、しっぽを忙しく振ってね。------わかってるんだ。ちゃんとしていれば、すぐに、よし! ってオーケーがでることをさ。------別府」
 別府は、わたしたちが創り出している不定期の実験演劇というものを、少なくとも、わたしの出している評価より、数段うえに位置づけていて、それをひとは情熱と呼ぶのだろうが、毎回、誰からともなく出される突拍子もない要望に対して、演劇的モティーフへと意識の奥深くで変換させ、舞台化が困難であればあるほど喜び、必要以上に脳をフル回転させ、その摩擦熱で、自分の魂を癒しにかかり、悶え苦しむことで、生きる意義を見いだし、事実、そのように生き延びているようだった。
 その頂点といっていいのが、英国での公演だった。
 九年ほどまえのことになるが、わたしたちの作品が、一部の人々に! 好評を博し、名のある劇場から招待されたのだった。
 舞台にあげた作品は、全九十二幕、百八十六場、時間にして丸2週間演じつづけられるという、途方もなく長い芝居で、出演者だけでも百三十人以上いた。フルオーケストラまで同行させた。誰ひとりとして、劇中で歌うわけでもないのに。
 わたしたちは総掛かりでシナリオを英訳し、英国向けに演出し直した。全員を同じ飛行機に乗せたが、まるで貸切状態で、どこへむけてでもいい「おい」と呼べば、仲間の誰かが「うん?」とふりむいた。
 芝居は予想以上に、一部の人々に! 好評だったらしいが、わたしは現地にいったものの、仕込みをちょっと手伝っただけで、仕事の都合上、すぐに日本へトンボがえりするしかなく、実際には知らない。
 しかし、賞賛される役者や演出家にくらべ、あまりおもてだって賛辞を述べられることのないプロデューサーとしての別府だが、かれは、他の誰よりも喜び、悦に入っていたらしい。かれは、わたしたちの芝居が好意的に紹介されている新聞や雑誌を何部も買い込み「これ以上の土産はない」と夢心地で胸に抱きしめていたという。事実、この作品は英国の演劇祭で最高賞を受賞した。日本では、報道されてはいないが。
 しかし、別府は、破産寸前になった。
 別府の心のなかでは、役者も演出家も他のスタッフもふくめ、全てが自分の作品であると、そうした思い上がりがあるのだろう。
 わたしは、宇津木の話をききながら、どうにかして話題をそらせたいという欲求がわいてきた。わたしは、わたしのこの感覚を信じていた。
「大麦の麦芽だけを原料にしたこの酒は、まず、麦芽を乾燥させるためにピートという、泥のことだけれどもね、イギリスには不思議な泥があるものだが、それを焼いて、独自の香りをつけているんだよ。リトグラフや写真かなにかでみたことがあるだろ、大きな金属製の蒸留機をつかってね、ポットスチルっていうんだ、それで、ぽとりぽとりと、一滴一滴ためていく。手間暇がかかっていてね」
「おいおい、そんなこと、どうでもいいことだろ。いまは『深海魚』の芝居について------」
「ピート。みたことあるかい?」
「おい」
「せっかく、こんなうまいものを四人で飲んでいるんだ。共通の話題にしようじゃないか。なあ、別府。ねえ、美代子さん」
 誰からも返事がなかった。三人はわたしを黙って見つめた。
 わたしは、両手のなかにおさまったオールドファッショングラスをみつめ、静かに告げた。
「あとになってわかるのは嫌なんだ。自分の勘が正しかったってことがさ」 (つづく)


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