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『深海魚』

七雨七虹 作  


3


 わたしと三人との接点はなにかというと、実はわたし自身、先にいった例のアングラ演劇の劇団で、一緒に役者をしていたのだった。わたしとしては払拭しさりたい、にがにがしい経歴。しかもわたしは主役で出ることが多かった。何を勘違いしているのか熱烈なファンまでいた。
 アングラとはいえ、当時としてはとても名の知れた人気の劇団で、団員になることを夢見て、多くの若者が「入団試験」を受けに来ていた。なかには、劇団には落ちたが、仕方なしに伝統のある商業劇団に入って、そこで成功した者もいる。人間、なにが成功するかわからない。
「笑い」に傾斜していく以前の日本の前衛演劇は、幾つもの課題を抱えていた。
 ひとつは、「制度」あるいは「枠組み」とよばれた、既成の演劇の構造に対して、アンチテーゼを打ち出せるかどうかといった指向性といえるだろう。
「がくぶち演劇」に代表される、「舞台」「客席」といった二元論で、演劇を無批判で成立させることへの懐疑があった。「舞台」は豊かではないし、「客席」は決して安全ではない、という事実を共有する必要があった。いくつかの劇団が「テント公演」あるいは「屋外公演」にこだわっていたのも、一つには、演劇成立そのものへの否定があった。
 もうひとつは、「肉体論」といわれるところの「役者の肉体」への問いかけ。
 演劇というものを成立させる重要なカギを握る役者の肉体とは、はたして、どのように解放され、あるいは訓練を経て、何が獲得され得るのか、といった試行が各劇団ごとに提唱された。
 ある劇団では「メソード」として体系化され、極限まで、演劇空間で主体的な表現主体として耐えうるだけの肉体構築をめざした。
「暗黒舞踏」に代表される、前衛舞踏集団も、肉体を、たとえば絵画でいうところの絵の具や筆のように、力強く、豊かで繊細な一切を表現しきるだけの身体の所有を試みた。
 ある劇団では、特別な身体訓練こそおこなわれなかったものの、演出の段階で、主役、脇役、男女など、つぎつぎと配役を変え、様々なバリエーションで、役者の身体と演劇成立の絶妙をもとめた。
 ある劇団では、いっさいの演劇的な訓練を拒否し、最底辺と位置付けられた肉体労働者の中へ入って、そこで労働者としての肉体を体得し、汗や空腹や安い酒といったものを原動力として、具体的にどういった人間的なるものが成立するのかを模索した。
 ある劇団は、いっさいの役者訓練をせず、あるがまま、素のままで、舞台に立たせ、演劇が素朴に成立する最小単位をもとめた。
 ある劇団は、スタニフラフスキーの系譜を追い、アメリカのアクターズスタジオやそれに近似した「自己啓発型」ともいうべき方法論を採用して、人間の喜怒哀楽、過去のトラウマ、家族関係、身体的コンプレックス、あるいは人間存在そのもの、といったことを深く掘り下げていくことで、「演じる」ということの意味を掘り下げていった。もはや「リアリティを求める」ですらなく「トゥルースと成るように」と叫ばれた。
「声」において、もっとも顕著で、ある劇団では、声帯を痛めてもかまわないからあらん限りの大声で叫べ、といわれたし、ある劇団では、客席に聞こえなくてもいいから、ささやくように言われた。
 いくつかの劇団では、無言劇が上演されたし、膨大なシナリオをもとにして、演出の段階で削り落とし、最終的にいっさいのセリフがなくなっていった芝居もあった。
 みっつめの共通項は、「日本」というものの位置付け、といっていいのではないか。
 世界の中の日本、というよりは、アジアの中の日本、という視点が主流だったように思う。
 芝居が、民衆のものであるのならば、我々は、いったいだれと連帯し得るのか。連帯しなければならないのか。
 人間が、何かを身体で訴えようとしている。声で、表情で、全身で、なにかをしている。
 それはきっと、重要なことなのではないか。
 観る側も、客席などといった位置におしこめられることなく、感じあっていいのではないか。
 観客も、観るという行為で、観ているという身体で、観ているという「声」で、役者と同等に、演劇の主体者たり得るのではないか。
 と、いったこと。
 わたしは、劇団での自分の役者としての限界を悟り、早々に退団した。
 その時、申し合わせたように劇団を辞めたのが、プロデューサーの別府だった。別府もまた役者だった。つまり早い話、アングラ演劇は、ほぼ全員が役者なのだ。
 別府の退団の理由は「自分に廻ってくるのが端役ばかりだからだ」と。
 なるほど、何度聞いてもわたしは笑った。だが、笑っても別府は真面目に、何度も同じことを言った。今ではどんなに良い役を彼の鼻先にちらつかせても、屁とも思っていないけれども。
 わたしは当時、自分が舞台に立つことよりも、裏方の仕事が好きだった。
 それも、できるならば脚本を書くという形で参加したかった。
 だが、劇団にはすでに、しっかりとした脚本家が複数人いたので、わたしは「そのなかのひとりに加えることはできない」といわれた。
 左翼思想と、ラディカルな身体論、それらをベースにした肉体訓練を、同一次元でふまえつつ、それらを、舞台の上の役者をもって一点に現前せしめ、加えて、舞台と観客席といった構造を解体し、演劇自体を運動体として、一大カオスを共有していく。そうした装置を、言語によって構築し、自己解体させることで、演出家、役者、大道具、小道具、衣装、音響、照明、へと演繹させていく。スリリングに世界を挑発し続けるところの「捻転した」シナリオを求められた。
 役者の宇津木の妻である、演出家の美代子夫人も、同劇団で、役者というよりは演出に回りたがった。が、やはり「人数が足りている」という理由で許されず決裂。
 宇津木は、大手のプロダクションにスカウトされて退団した。
 そのようにしてわたしたち四人は、劇団で出会い、それぞれの理由で劇団を離れ、かつ「各々がやりたいことをやろう」という一点で繋がり、旗揚げをした。
 芝居があってもなくても、四人は時折あっては食事をしたり、一緒に旅行をしたりと、懇談する、インフォーマルな間柄であったので、宇津木が突然「深海魚」の話題を持ちだした時も、皆は違和感なく受け入れた。
 場所は、宇津木夫婦の自宅。地下につくられた、木の床材を敷きつめられた稽古場だった。
 六十畳ほどだが、一面だけ大きな鏡が貼られていたので、実際は、さらに広く感じられた。
 わたしたちがそれぞれ、巨大なお手玉のようなビーズソファーに身を沈めて、安定しているとも、不安定ともいえる座り心地を味わっているなかでの発言だった。
 美代子夫人は、二人の姉が、睡眠導入剤サイレースを飲んで、ぐっすり眠ったのを確認して降りてきた。
 宇津木は、自分がインスパイアーされた「深海魚の写真」を数枚、A4サイズに引き伸ばしてわたしたちに回した。
 わたしは、わたしの手元にそれが回ってきた時に、となりの別府が、早く見たがっているのを知りつつも、しばらく手に持って、その怪奇さと向かい合っていた。 (つづく)


T h e J a p a n W e l f a r e T i m e s


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