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日本福祉新聞連載小説
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『深海魚』
七雨七虹 作
2
姉の二人は、都の発行する『障害者手帳』正式には『精神保健及び精神障害者福祉に関する法律45条の保健福祉手帳』をもっていた。
うえの姉は、障害者年金の受給者でもあったが、したの姉は年金申請が通らなかった。
理由は、うえの姉は「精神の病」であることが証明されたが、したの姉は、同様に精神の病にかかってもいたが、「神経症」をおもな病気の根拠とされ、現行法では年金対象とはならなかったのだ。
うえの姉の薬は、三環系抗うつ剤。
したの姉の薬は、SSRI系の薬。
夫人の両親はすでに他界し、肉親と呼べるものは、二人の姉を置いてほかになく、ことのほか気にかけていた。
「だいじょうぶ?」
「あなたは?」
「わたしは、だいじょうぶ。あなたは、どうなの。無理してない?」
「ええ、だいじょうぶ。無理はしてないわ」
「ねえさんは?」
「わたしも、だいじょうぶ。今日は、なんでしょうか、すこし、元気みたい」
われわれの仲間のもう一人は、プロデューサの別府氏。
わたしたちが創りたいものを、細部までチェックし、役者のキャスティングから照明、音響、舞台美術、殴り、大道具、小道具、衣装、デザイン、メイク、ヘアメイク、など一切を統括し、最適と思われる人員を配し、総体として、高品質で、なおかつ、できうるかぎり安価で創作し、高く売る、そうした任務を自らに課し、さらに、パトロンやスポンサー企業を探してくる、といった、重要な裏方のすべてを担っていた。
プロモーションの技にも長けていて、人々の耳目を集めんために、スキャンダルにまみれた役者をここぞと出演させたり、あるいは意図的に、出演者の隠された個人的な事情、特に、離婚や不倫や破産などを、容赦なくタイムリーにリークした。他にも手のこんだ情報媒体操作をいくつもした。
だが、それらはけっして責められるべきものではなかった。
演劇を少しでもかじったことのあるものならば首肯する、上演は途方もなくカネがかかる。
手を抜けば、どこまでも手を抜けるが、いっぽう、完成度を極めれば極めるほど、また、大舞台であればあるほど、幾何級数的に、まさに、じゃぶじゃぶと音がするほどカネが飛んでいく。
うえは「億」という単位。いや、それ以上。青天井。
誰かが止めなければ、たった一本の芝居で、何人もの関係者が破産し、都心に建つ立派なビルが幾つも消えていく。それほどに贅沢な、総合芸術である。
演劇という暴れ馬の手綱をしっかりと握り、暴走を食い止め、コントロールするのがプロデューサの仕事だった。
別府がいなければ、芝居は成立しないし、そもそも我々が舞台に携わりながら、今日まで生きのびることができなかったであろう。別府はいってのけた。
「極限を超えた芝居を創れ。極限を超えて、支えてみせる」
日頃ばらばらに各々の仕事をする、わたしを含めた四人全員が、魂の洗浄をするかのように、あるいは各人の、こころの原点回帰をはかるかのように、不定期ながらオリジナルの演劇を発表するということを、何年も、何十年もおこなってきた。
しかもそれには、幾つかの条件があった。
まず第一に、公演回数が、東京での一週間だけであるということ。わたし以外三人全員が、多忙であったことによる。
第二に、予算は完全持ち出しであるということ。別府の尽力によってさえスポンサーが見つからない場合、別府の所有する不動産一切に担保設定がなされ、さらに規模が大きい芝居になると宇津木と美代子夫人、夫婦ふたりの自宅および不動産一切を担保にかけ、銀行からカネを借りた。それでも駄目となると、いよいよわたしの家にも担保をかけた。もちろん、妻には内緒で。
第三に、ここが最も重要な点だけれど、「絶対に他の演劇集団が真似できない舞台」であるということ。真似をしようと思ってもできない。真似ることなど考えも及ばない「演劇」
唯一にして、絶対なるもの。
つまりこれを要約すれば、赤字覚悟の実験演劇を強行する、良い歳をしたイカレた、無謀なる四人組ということだ。
おおよそ一、二年に一度のペースで舞台は創作された。
おおくの演劇批評家は絶賛した。
しかし、客は全くといっていいほど、しらけていた。
ただ、そうしたなかにも「おかしなやつ」はいるもので、宇津木や美代子夫人をつかまえて、ナイフをふりかざし、「お前たちがやっていることが、真に、芸術であるか、いってみろ。もし、芸術というのなら、オレは、いまここで、おまえたちを刺す!」と騒ぐ、不届き者もいる。
美代子夫人はいう。
「さあ、刺せ。芸術だよ!」
宇津木も、いう。
「ありがとう。やっててよかった」
演劇関係者のなかには、勘違いしている者が多い。
舞台の幕を境に、テンションが高いのはどちらか? 前のめりになっているのはどちらか?
命をかけて、のぞんでいるのはどちらか?
客だ。
役者でも、演出家でも、ほかの演劇関係者らでもない。
命をかけて観にきた客が、ひとりでもいれば、そのことが感じられれば、それだけで、演劇冥利に尽きるというもの。
たったひとりの、観客とであう。
しかも、再現性のない、一回こっきりの「なまもの」
だから、演劇はやめられない。
というわけで、われわれ集団は、舞台にあげる演目も決まらないうちから、数年先の小屋をおさえてあったのはいうまでもない。
山手線の某駅にある劇場、毎回そこでやった。
キャパは七百席程度。
月曜初日のマチネからはじまり、昼夜の二回公演、日曜日のソワレまで、全十四回公演というのが近年のパターンだった。全席が埋まって、マイナス一、二千万というところか。
さて、わたしは何者であるのかというと、某省に勤務する国家公務員である。しかも経年のせいで、能力もないのに、いつのまにか分不相応な上級の役職についている。
公務員は,他に収入を得る活動をしてはならず、ところが、わたしはこの芝居を通し、なんらギャラが発生していないので、したがって、理論上はセーフであった。
われらが四人の劇団には、ちゃんとした名が付いていて、耳にした者も多いのではないかと思う。だが、まさかそこの座付きの作家がわたしであろうなどと、誰一人として知らないであろうし、いっても信じてはもらえないどころか、笑われるほどわたしは、演劇に限らず、芸術一般からほど遠い人間であると受け止められていた。
それは,わたしの望むところでもあった。ので、マスコミがときおり興味にまかせて「このシナリオは、どういったかたが書かれているんですか」などと訊ねてきたりすると、三人は、笑いながら、ときに憤慨したふうを装いながら秘匿してくれた。
過去に「上演されたシナリオ集を出版しませんか」といってきたバカもいたが「ふざけるな」とあしげにした。
(つづく)
T h e J a p a n W e l f a r e T i m e s
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