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『カタマラン』

君近桃菓 作  

第1章
2

 卒業と同時に、私たちは結婚した。
 妻は、法医学教室へとすみやかにはいった。
 私が、なにがしかの便宜をはかったかといえば、否定する材料はない。だが、真実、妻は優秀な法医学者だった。屍体に対する興味や、そもそも死にたいして動じない「体質」だといったことを不問にしたとしても(まあ、当たり前だが)、妻は検視に関して、抜きん出た能力を有していた。
 「屍体」というものは、実に様々な表情を持ってる。
 屍体としての「あらわれ」といいかえてもいい。
 私たち職員らは、たしかに、それぞれの分担をもって検視にあたっている。がしかし、視野狭窄に、自分の検査や研究にのみあたっていればいいというものでは決してない。むしろ、幅広く、さまざまな知識を吸収し、多角的に「死」あるいは「屍体」なるものを見つめる姿勢がなくてはならない。
 「屍体」はひとつである。
 が、屍体への「解釈」は、ひとつではない。
 そのうえで、私たちが求めるのは「屍体に対するひとつの答え」だ。
 たとえば、屍体に、ウジがわいていたからといって、すなわち、ハエが産卵したから、遺伝子を調べてハエを特定しよう、といった行動は、決して間違いではないけれども、ウジがわく可能性は、直接のハエの産卵ばかりではない。ほかにもいくらでも可能性はある。ハエの遺伝子による特定にしても、地域や属性や生態が、すべて明確になっている、科学的根拠に使える、というわけではない。同定されたハエが、広範囲に生息し、むしろ、死因究明や屍体の身元判明にとって、迷惑とさえいえるような情報であることも、実際には多い。
 だから無駄な検査はしない、というわけではないが、すべての検査が、すべて、同一の方向を示しているというわけでもない。ときに、矛盾しているとさえいえる検査結果がでることも多い。
 理論上、ありえないはずだが、頻繁に、起こっている。
 ありとあらゆる検査を、もう一度、最初から点検し、綿密に調べ上げ、否定的要因を排除していく。その集合体が、多様性を示すかのごとく、ばらばらな結論を示す、そうしたものとしての「屍体」
 妻は、どこでそうした知識を身につけ、どこで超越的な力を得たのかは知らない。
 だが、あきらかに我々が「ひとつの問題ある屍体」をまえにして、腕組みし、首をかしげ、手がかり一切を見つけ出すことができず、もんもんと、閉塞状況におとしこまれているとき、どこからともなく、ささっとあらわれ、霊能者が大地に小石を投げ宣託をのべるように、あるいは、訓練された豚が、黒トリュフの露出さえしていない草叢に鼻先をむけるように、「屍体」にむけ、告げた。
 それは明確で、卓越し、研究員の誰もが思いつかなかった視線であり、解釈であり、とっかかりであった。
「屍体と対話する美少女」とは、実際、誰がいいだした言葉なのかはわからないけれども、単純な、あるいはちょっとした印象をのべたといった性質のものではなく、彼女と関わったことのある者なら、何度も目撃し、再確認していったに違いない、一般化された、とさえいえるような共通認識であって、けっして「文学的」な表現でもなく、また、「非科学的表現」でもない、つまり間違った解釈ではない、と私には思われた。
 彼女が卒業と同時に、正式に、法医学教室へと移ってきたことに対して、いらぬ詮索をしたり、あるいは、私への懐疑や、彼女の「美しさ」にたいしてさえ嫌疑をかけられるのが当然と思われるのに、そうした一切がおこなわれなかったと、確認しておきたい。
 つまり、もっとも法医学者らしい法医学者だった。
 たとえば、こんなことがあった。
 彼女が卒業を控えたある日、法医学教室のアシスタントといったかたちで当時、参画していたのだが、一体の「屍体」が法医学教室に届けられた。
 もちろん、「事件性の有無」でいえば、「事件性がある可能性が高い」ということで、法医学教室での検視が求められたわけだが、実際、法医学教室のスタッフ全員が絶句をした。
 「屍体」にみえなかったからだ。
 そもそも、一般人の方が思うほどには、われわれ法医学者は、「屍体」にたいして、感情が動かないものだ。
 あえて誤解を恐れずにいえば、どんなに無残な殺され方をした方に対してであっても、向かい合ったときには、悲しくはない。
 きれいごとに聞こえるかもしれないが、悲しみを、死因究明への力へと置換する。そのように訓練されている。喜怒哀楽を、表に出しては、正しい判断ができないばかりか、ときに、間違った結論を導き出し、「生きているかた」に、損害を与えてしまうこともある。これは本末転倒だ。法医学の目的は、「生きているひと」への有益性に立脚しているからだ。「被害者だとばかり思っていたら、実は、加害者であった」などというケースは、法医学の世界では日常茶飯事なのだから。
 われわれは、すべての屍体に対して、悲しくない、と宣言しよう。
 同様に、すべての屍体に対して、不快感はない。
 一般の方がおもわず目を背けるような、あるいは、嘔吐感をもよおすような「屍体」であったとしても、われわれは、まったく気にならない。
「哲学」それもカントに代表されるような形而上学的な観念論をもちだすまでもなく、われわれも、われわれとして、「死」とであい、アプリオリなるものが惹起され、対象を認識し、「屍体はある」と解釈されている。「屍体」であれば「屍体」として、どこまでも解釈していく。
 だが、いや、だからこそ、「屍体」が「屍体」でなくてはならない。
 先の状況に話を戻すと、われわれスタッフが絶句したのは、屍体が「悲しかった」からでもなく、また「おぞましかった」からでもない。
「屍体」に見えなかったというのは、純粋に、「屍体」と呼ぶべきものが「なかった」からだ。
 全体が液化していた。
 その液体を、警察が、どのように収集してきたかはいいとして、歯、骨、体毛、爪、内臓、皮膚、一切が溶解し、判別できなかった。
 人間は、最終的に、「純粋な水になる」とも言われている。
 カメにいれられ、和紙で封印されて埋葬されたと思われる「屍体」が、長い年月をかけて、様々な形で分解され、当然、菌なども繁殖したであろうし、またその菌も死んで分解され、さらには、虫やネズミ、ミミズなどといった生物によってダメージを受けなかったという条件下でだが、水として発見されたケースがある。
 ここまでくると、「屍体」であるとは、だれも断定できない。
 古文書や過去帳のみが、頼りという、非医学的な方法での推測が限界。
 さて、水ではなかったものの、「完全に」溶解した「屍体とおぼしき液体」を前にして、スタッフが立ち尽くしていると、妻こと「屍体と対話する美少女」が、スタッフの背後から、人垣を分けて前へと出るや、それは熱帯魚をいれる大きな水槽のなかにたゆたっていたのであるが、上体をかぶせ、顔を近づけるや、なめた。
 その後、ひとりごとのように、「液体」にむけて、しゃべり始めた。
 われわれのだれもが、息を飲んだ。
 本当に「対話」しているかのように見えた。
 妻こと「屍体と対話する美少女」は、その後しばらく、行為を続け、その間、何度も、なめた。
 わたしは、われにかえり、気が触れたに違いない妻こと「屍体と対話する美少女」を抱き起こそうとした。実際、背後から、両肩をつかみ、声をかけ、強く引いた。
 彼女は、うるさい、といって、わたしの手をふりほどいた。
 わたしは、「本格的に気が触れた」と解釈して、いっそう強く肩をつかんだ。
 すると、妻こと「屍体と対話する美少女」は、やっと十分な対話ができたわ、といった顔で、まるで、海外に滞在する電話回線のインフラ整備がよろしくない、ごく親しい友人と回線が通じ気持ち良くやりとりができたわ、といった表情で、振り向き、わたしをみて、あかるく告げたのだ。
「女性。------可哀想に」 (つづく)


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