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第一面 i n d e x > 社会復帰支援・慈善活動 > 社会復帰支援
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社会復帰支援
いうまでもなく人間は社会的動物であるので、社会から切り離された形で、あるいは排除されては生きていくことができない。人間個人はけっして強い存在というわけではないので、支えあう必要があるし、またその権利もある。支えあって生きているというのが実際、厳然とした事実でもある。だが、「篤志家」や「一部の心の優しい人」が、人々を支援したり慈善活動をするのだ、と考えている人はこのニホン国では多い。場を与えられれば人を助けるが、通りがかりの人は助けない、という人もまた少なくないのが事実だ。「人から助けられたり、哀れみを受けるような人間にだけはなりたくない」といった思いで、がむしゃらに働く人も。だが、それがいかに不自然で、痛ましいことであるか、我々は学んでいる。人を助けること、助けられることは、何も特別なことではない。ホームレス/再就職/慈善・基金/ボランティア活動/公益団体の福祉活動/企業の福祉・メセナ。
●生活保護
→生活保護法
→日本国憲法
『生活保護法』は、日本国憲法第二十五条の
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」
「2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」
と規定された理念にもとづいて、国が生活に困窮しているすべての国民に対し、困窮の程度に応じて、必要な保護を行い、最低限度の生活を保障し、自立を助長することを目的としています。
すべて国民は、この法律の定める要件を満たす限り、この法律による保護を「無差別平等」に受けることができます。
この法律により保障される「最低限度の生活」は、健康で文化的な生活水準を維持することができるものでなければならない、とされています。
生活に困窮するひとが、利用し得る資産、能力、その他あらゆるものを、最低限度の生活の維持のために活用することを要件として行われます。
経済的に絶望し、生活を破綻させる前に、市区町村の役所や「福祉事務所」へ相談しましょう。
『ホームレス自立支援法 ボンドレス被害にあっている人々』
■日本福祉新聞「ホームレス自立支援法」研究部会
あなたは『ホームレス自立支援法』という言葉を聞いたことがありますか?
家を失い、路上や空き地などで生活を余儀なくされているひとたちへの、社会復帰や自立への支援へ向けた法律です。
ホームレスではないひとたちの多くがそうであるように、ホームレスのひとは傷ついています。ホームレスではないひともそうであるように、絶望のどん底にいるホームレスのひともたくさんいます。
なにが違うのでしょうか?
「ホームレス」という言葉が示すように、家がないだけ?
違います。
絶望が深いのです。
想像を絶するような、人生を歩んできたひとばかりです。
社会に対して、人生に対して、希望を失い、人間に対して壁を作っています。
その心の壁は、自身を社会的援助から遠ざけてはいますが、自分らしさの最後の砦でもあります。
これ以上傷つきたくないし、この壁を壊したいとも思っているのです。
できることなら、社会に復帰して幸せに暮らして欲しいと多くの支援者たちは思っています。
でも、多くの助言をし、はげまし、よりそい、まるで、ホームレスのひとがなくしたものすべてを与えられるかのように活動をしても、なぜか、ホームレスのひとの多くが、社会に復帰しないのです。
あるいは、自立したかに見えて、またホームレスの状態に戻ってしまう。
ホームレスのひとを呼び戻そうというこの社会
「受け皿」などという社会システム
地域社会のホームレスのひとへの意識
就労環境
そうしたもののどれもが、本質的にホームレスのひとを遠ざけているのではないか。
社会復帰しないほうが、ホームレスのひとにとって、こころの痛手が少ないのかもしれない。
ホームレスのひとを、「ホームレス」というものに押しやった「わたし」というものに、そもそも、家がないのかもしれない。
「ホームレスの自立の支援」とは、ホームレスのひとにむけられた言葉です。
「ホームレスとなることを防止する」という言葉は、ホームレスのひとが、ふたたびホームレス状態にならないように、という意味もあれば、社会全体に対して「ホームレスにはなるなよ」といった言葉であると共有します。
でも、そのような関係こそが、なにより「ホームレス」であるといえるかもしれません。
ホームレスのひとへの人権にたいする配慮こそ必要です。
「さげすまれ、差別され、排除され」てきました。
「公園から出て行け」
「道路に寝るな」
「河川敷に仮設住宅を作るな」
「橋の下に住むな」
「景観を損ねるから、街から出て行け」
「治安が乱れ、汚らしいから、警察が逮捕しろ」
「他の利用者のご迷惑になりますから、図書館から出てください」
「服装の汚れている方には入店をお断りしております」
……
あらゆる日本の法律が、ホームレスのひとに対して、拒絶的な姿勢で対応しています。
ホームレスのひとに、本質的に救助され得る論拠はないかのようです。
ホームレスのひとは、構造的に「地域社会から追い出されたひと」です。
組織されないひとです。
しかも理由のすべてを、ホームレスのひとに負わせています。
無能
敗北者
生産性がない
犯罪者
知的しょうがい者
精神しょうがい者
身体しょうがい者
内部しょうがい者
破産者
無産者
性格破綻者
離婚者
放浪癖
重い皮膚病
アルコール中毒者
……
理由はさまざまです。
もちろん同じ理由であっても、ホームレスではないひとも大勢います。
では、なにが両者を分けたのか?
わたしたちと、なにが違うのか? なにが同じなのか?
「地域社会の理解と協力を得る」とは、最も根源的で、最も難題な、ホームレスのひとの前に立ちはだかる最大の壁でもあります。
ホームレスのひとは、頻繁に「襲撃」されます。
襲撃はときに、殺人事件になり、襲撃をした者は、正当性を訴えます。
襲撃されると、ホームレスのひとは、心底おびえ、悲しみます。
生きていけないのではないか、生きることはできないのではないか、生きていてはいけないのではないか、と考えます。
襲撃は、特異な考えを持ったひとの、特異な行動ではありません。
地域社会が内在している、ホームレスのひとへ向けた否定の思いが、顕在化したもの、といえるでしょう。
ホームレスのひとを受け入れる、ということの真の意味で、ホームレスのひとを地域住民が深く理解したなら、ホームレスのひとは、「自分は無条件で、生きていていいんだ」ということが伝わり、もしそのなかで、選択肢の一つとして、働きたいというひとがいたなら、自然に働き出す、これが自然な社会復帰、なはずです。
自立への支援にむけた社会機構も機能します。
世界には、無能であっても、敗北者であっても、生産性がなくても、犯罪者であっても、知的しょうがい者であっても、精神しょうがい者であっても、身体しょうがい者であっても、破産者であっても、無産者であっても、性格破綻者であっても、離婚者であっても、放浪癖であっても、重い皮膚病であっても、アルコール中毒者であっても、地域社会が受け入れて、平等に、共生している社会はあります。
日本にはありません。
公園にいても、道路で寝ていても、河川敷に仮設住宅を作っていても、橋の下に住んでいても、景観を損ねていても、治安を乱し、汚らしくしていても、他の利用者のご迷惑になるからといって図書館から出てくださいといわれなかったり、服装の汚れを理由に入店を断られず、市民と共生し受け入れられている社会はあります。
でも、日本ではありません。
もしかしたらその社会には「ホームレス」という言葉さえないのかもしれません。
日本には「ホームレス」という言葉と、概念があります。
「ホームレス」の対立概念は「地域社会」「家」「国家」です。
「ホームレスのひと」の対立概念は「地域社会のひとびと」「家族」「国民」です。
「理解」の対立概念は「差別」です。
「共生」の対立概念は「排除」です。
地域社会は、じつのところ「ホームレス、なるもの」をおびえています。
無能といわれないように。
敗北者にならないように。
生産性がない、などといわれないように。
犯罪者にならないように。
知的しょうがい者を産まないように。
精神しょうがい者にならないように。
身体しょうがい者にならないように。
破産者にならないように。
無産者にならないように。
性格破綻者にならないように。
離婚しないように。
放浪癖にならないように。
重い皮膚病にならないように。
アルコール中毒者にならないように。
こどもにはそのように教育しますし、しつけます。
自分でも、いましめます。
それらの恐怖が、ホームレスのひとを、地域や、社会や、意識から遠ざけ、排斥することで、どうにか日常の平和を実感しようとしているかのようです。
しょうがい者差別はなくそう。
同和問題、在日朝鮮人・韓国人問題、アイヌ問題、沖縄問題はわかる。だが、「ホームレス」だけはだめだ!
多くの福祉関係者が、さじを投げます。
ホームレスのひとを、みかけるたびに「ああはなるまい」とさげすみます。
「みてはいけません!」とこどもに、さとす母親や教育者もいます。
大人の真似をして「しんでしまえ、ごみ!」となじる、こどももいます。
ホームレスのひとを理解するということは、自分が避けてきた「おびえの中に入る」思いがして、多くのひとが嫌がります。
しかし、ほとんどのホームレス支援活動をしているひとたちが感じているように、ホームレスのひとにこそ、多くを学び、多くを与えられ、想像さえしなかった輝きをひきだされます。
他の福祉の現場も、それぞれ、大変に深く学ぶことができます。
それでも、多くのひとがたゆまず、ホームレスのひとをサポートするのは、最も困難な生き方をするひとのなかに、最も豊かなものを感じさせてもらえるからです。
したがって、残念なことに、最もホームレスのひとのことを理解し、最もホームレスのひとについてのリアルで詳細な最新の情報を把握し、最もホームレスのひとの心に深く寄りそって、最もホームレスのひとを命がけでサポートしているグループは、ホームレス、そのひとたちなのだという事実です。
もしかしたら、ホームレスのひとの数は、社会からゼロにはならないのかもしれません。
もしなくなったなら、その社会は、「完璧な福祉社会」であるか、あるいは全く逆の、「完璧な管理社会」か、どちらかであるといえるかもしれません。
ホームレスのひとを、心身ともに、完全に救助し、「わたし」にも自発的な生きる力がよみがえったのか。
ホームレスのひとを、「わたし」から隔離施設へ収容し、一般市民の視線から隠したか。
その意味で、ホームレスのひとがいてくれるということは、「わたし」に、いつも天国と地獄を示し、かつまた、そのような役柄を担わせてしまっているということに、深く頭を垂れます。
あなたは、ホームレスのひとに、救助された経験はありませんか?
あなたの周囲のひとや、知人にいませんか?
ホームレスのひとに助けられたんだよ、というひと。
精神的な救助や、根源的な打開はもちろん。
特に、「自殺」を思い、深夜、公園や、道路や、河川敷や、橋の下で、死と孤独に向かい合い、何もかもに絶望し、何もかもを放り出して、生きる力を使い果たし、実際に行動を起こそうとしたそのときに、いつからいたのか、暗闇のなかから、でてきて、あたたかいものや、あたたかい言葉をもらった、という経験のあるひと。
あのとき、ホームレスのひとがいなかったなら、今の自分はいないんだ、というひと。
わたしたち日本福祉新聞は懐疑しました。
「ホームレス」という言葉のなかにひそむ差別を。排除を肯定するニュアンスを。責任を転嫁する悪意を。
まるで、「ホームレス」のひとたちが、怠け者で、人生の失敗者で、汚らしいクズ、であるかのような印象を与えているのではないか?
「ホームレス」
「ホームレス状態」
「ホームレスの状態に置かれているひと」
「ホームレスの方々」
いろいろな呼称を、いろいろな個人やグループや法律が、使用していました。
でも、どれも、責任の所在が明確ではありませんでした。
わたしたち日本福祉新聞は、いわゆる「ホームレスの状態に置かれているひと」にたいして、責任をとるべきは、「わたし」の側にあると規定するにいたりました。
「わたし」は3つの点で、失っています。
1.住居、職業、社会的制度による救済、市民の一員であるという資格
2.日常生活における親密な人間関係の構築
3.自分自身への信頼
これらを「わたし」が失っているにもかかわらず、まるで、路上や河川敷や橋の下に暮らすひとだけが、そうであるかのように差別していました。
あるいはまた、路上や河川敷や橋の下に暮らすひとをつくりだしてしまった経緯すべてが、かれら本人のせいであると、見事に、切り捨てていました。
あるいはまた、路上や河川敷や橋の下に暮らすひとも、ネットカフェ難民と呼ばれているひとも、自分をおとしめてしまっていることへも、無関心でした。
わたしたち日本福祉新聞は、「わたし」と「ホームレスの状態に置かれているひと」との違いを、見つけだすことはできませんでした。
しかし、「わたし」と「ホームレスの状態に置かれているひと」とが、切断されている、ということだけはわかりました。
互いに、つながりを断たれ、絶対的多数にいる「わたし」が、現れとして、利益を独占し、弱者であり、絶対少数である「ホームレスの状態に置かれているひと」が被害者になっている。
わたしたち日本福祉新聞は、「ボンドレス(Bondless)」という言葉を、いま、うみだします。
「ボンド(Bond)」とは、「絆」
「ボンド(Bond)」とは、参加したり、他の何かにしっかりと結合すること。
個人の能力や資質に還元されることのない、社会全体のなかでの指標。
単に「家」を失っている、仕事を失っているのではなく、社会から「つながりを断たれている」
家を与えても、つながりが断たれたなら、むしろ「ボンドレス(Bondless)」は深まります。
職を与えても、職場で孤立したなら、「ボンドレス(Bondless)」です。
教育課程のなかですでに、「ボンドレス(Bondless)」が始まっています。
競争社会や、国家主義、民族主義のなかにある、排他性という「ボンドレス」が、世代を超えて、幾重にも更新され、補強されています。
「ホームレスの状態に置かれているひと」の3割が、なんらかのしょうがい者であること。
貧しい国からやってきたひとびとも、路上や安宿にあふれているということ。
「ボンドレス(Bondless)」化は、ますます、多面的で、重層で、深刻になっています。
家がない、職がない、おかねがない、居場所がない、病院へ行けない、社会福祉の支援を受けられない、地域に差別されている……
それらはみな、「ホームレスの状態に置かれているひと」の個別の特徴ではなく、「ボンドレス(Bondless)」に現れた、それぞれの現象面(Surface)です。
現象面(Surface)だけを整えようとしても、「ボンドレス(Bondless)」が継続され、、隠され、強化されていたなら、問題の解決にはならないどころか、より一層の「ボンドレス(Bondless)」に陥ります。
「ホームレスの状態に置かれているひと」は、個人の能力的問題、気質や社会性、しょうがい、として片付けられてきました。
しかし、わたしたち日本福祉新聞は、「ボンドレス(Bondless)」被害にあっている人々、として受け止める試みをします。
わたしたち日本福祉新聞は「ホームレス(Homeless)」という言葉のなかに、
1.重大な差別性を認める。
2.「ホーム(Home)」「自立」を求めていものると、既成事実化してしまう。
3.「ホームレス(Homeless)」という状態の責任を、個人に転嫁している。
4.「ホームレス(Homeless)」におとしめた、社会構造の責任を明確にする必要がある。
5.「わたし」と「ホームレス(Homeless)」に置かれたひと、とが不可分なものとして、同時に救済へ、プレゼンスされなくてはいけない。
幾つもの「ホームレス支援団体」が、支援に成功しつつあります。
かれらは、家や仕事や服や食べ物だけを「ホームレスの状態に置かれているひと」にたいして、差し出しているわけではありません。
なにより人間的につながり、「ボンド」をこそ大切にしていました。
「仲間とつながり、互いに救助しあう、救助されあうんだ」ということにコミットしています。
「絆」「ボンド」を構築することに成功しているのです。
行政がなにを与えようと、「いらない」「いやだ」といって受け取らないのは、人的つながりがないからです。信用できないからです。
むしろ切り捨てる側の人間ではなかったのか。
切り捨ててきたではないか!
「ボンドレスの状態に置かれているひと」同士が、互いに助けあっているのは、まさに、失われれた「ボンド」をこそ再構築しようとしている。
どん底にあっても、だからこそ結合し、それゆえ「ホームレスのままでいい」といっているのではないか。
「ボンドのない社会は、むしろそっちだ!」と。
支援に成功しつつある団体は、長い時間と対話を重ね、地域住民の理解をも勝ち取っています。
ネットワークは広がり、成功のスキルがたくわえられ、共有し始めています。
つながっています!
きれぎれだった、地域ボンドレス(Bondless)が、地域ボンド(Bond)となりました。
「襲撃」していたこどもたちは、教師、保護者、支援団体の対話を重ね、授業や冊子で学ぶことで、「襲撃」をしなくなり、むしろ支援する者になりました。
教育ボンドレス(Bondless)が、教育ボンド(Bond)を形成しました。
「ホームレスの状態に置かれているひと」を、ボンドレス(Bondless)被害から守ることが、緊急の課題です。
ゆえに「わたし」は、おのれの「ボンドレス(Bondless)」を認め、わたしたち日本福祉新聞は「ボンドレス(Bondless)」という言葉で、「ホームレスの状態に置かれたひと」と「ホームレスの状態にした社会」と「わたし」とを、解説(ボンド)していきます。
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